記憶が保てるように

主に舞台や本、映画などエンタメと日常の話

オタクだけど「応援」したことはないかもしれない

 

以前ドルオタの友人と食事をしていたとき、ふと話題に上がったのが「応援ってなんだろう」「よく考えたら、推しを“応援”したことはないかもしれん」という話。これまでなんとなく滑りのよい言葉として「応援してる」という言いまわしを使ってきたけど、それに近しいことを自分がしてきたのか?と言われると疑問だ。というのも、舞台やイベントに足を運ぶのは「自分がやりたくてやっていること」という認識だし、自分の好みと合わなければ「やらない/行かない」選択もしてきたから。オタ活は全部、自分主体だった。

 

そもそもオタクにとっての応援ってなにを示すんだろう。たとえば、わたしがイメージするのは……【推しの夢や目標の実現を願い、推しの活動を支持する】ことかなぁ。とここまで考えたうえで、推しそのものを行動原理に、現場に行く・商品を買う・推しの出演媒体を宣伝するとかをしたことは、多分ないような気がする。推しという存在は判断の「決め手」になるというより、「きっかけ」と位置づけたほうが、なんかしっくりくる。「○○が出ているから行こう」はかならずしも成り立たないけど、「○○が出ている作品がおもしろそうだから行こう」のほうがすんなり入る。……言葉遊びかもしれないけど。笑 たまに「推しを人質に取られている」みたいな言い方をするけど笑、わたしの場合は(キャストが人質扱いになってしまう作品なら行かなくていいや)で終わってしまう。出演作を網羅するとか、ランダムグッズを揃えたい、みたいな欲求がない。それでも好きな俳優はいるんだけど。わたしがしたいことをした結果、もし誰かの応援になるのなら、それはそれで良いなあというのが自分のスタンスです。

 

そして正直、そんな「推し」という言葉にも年々こだわりがなくなっている。 もし誰かに「それって推しといえるの?」といわれたら、そういわれるならべつに推しじゃなくてもいいのかなぁ、というくらい。というか、自分の中で“推し制度の廃止”というフレーズが、気づいたら頭上に浮かぶようになってからけっこう経つ。笑 これは単純に熱が冷めたということかもしれないし、そもそも始めからオタ活プライオリティのトップが、タレントではなく「舞台ジャンル」や「作品」だったのかもしれない。まあでも、くくる言葉がなくたって変わらず楽しいし、舞台も映画も漫画もアニメも小説も好きで、マイペースだ。もちろんこれはあくまで自分の話なので、その人にとって楽しくいられるのが一番良いに違いない。結局のところ、「応援」も「推し」も個々人の自認制だと思うから。

 

とはいえわたし、「オタク」オタクなところがあって、他界隈や人の推しの話を聞くのがめっちゃ好きなんです。笑 これはまた、別の欲望の話。